▲海路を進む通信使
▲陸路を進む通信使

▲李朝風衣裳の唐子踊り
▲通信使ゆかりの本蓮寺客殿







江戸時代、将軍の代替わりに、信書を携え
李王朝と徳川幕府の間を往復した善隣友好使節団

moo研究室 歴史班 


【朝鮮通信使の歴史的背景】
 江戸時代に朝鮮通信使がはじめて日本を訪れたのは1607年でした。以降1811年までの約二百年ほどの間に12回日本にやって来ています。
 友好を目的とした朝鮮通信使がなぜこの時期に開始されたのでしょうか。と言いますのも、豊臣秀吉は晩年、朝鮮半島に兵を送っています。1592年文禄の役、1597年慶長の役がそれです。秀吉が1598年に没すると、ただでさえ戦果芳しくなかった秀吉軍は朝鮮半島から撤退してしまいます。つまり朝鮮通信使がやって来た17世紀の初めは、秀吉軍による朝鮮出兵の傷跡がまだ癒えていない、日朝関係としてはまさしく「最悪の時期」のはずでした。

【日本側の情勢】
 
朝鮮との貿易に藩の命運をかける「対馬藩」は、秀吉軍の朝鮮撤退後、交易の再開を求めて積極的に朝鮮に使節を派遣します。また、1600年関ヶ原の戦いに勝利を収めた徳川家康も幕藩体制の確立には諸外国との対立は避けたいと考え、対馬藩の交渉を認め、日朝関係の安定を図りました。

【朝鮮側の情勢】
 その頃、朝鮮半島の北方では、女真族が急激に勢力を伸ばしつつありました。(後に、女真族は中国において「明」を滅ぼし、「清」を建国するに至ります。)南北から挟撃されてはたまりません。南方の日本との関係を修復することが、女真族に備える第一歩であると考えられました。
 こういった情勢の中で、1607年に総勢504名からなる、朝鮮通信使が江戸時代になって初めて日本を訪れました。

【日本民衆の歓迎】
 江戸時代に合計12回も日本を訪れた朝鮮通信使は、日本の人々にとって、世界文化の最先端を身近に触れることの出来る「文化交流使節」でした。使節団には書家、詩人、画家などの芸術家も含まれていて、日本各地で迎えた、文化人や庶民と道端や宿舎で筆談するなど、歓迎ムードの中で交流が行われました。特に、当時、日本民衆に大好評を博したであろう「民族舞踊」は今でも日本各地でその名残が見られます。牛窓ではそれが「唐子踊り」として親しまれています。

小泉総理と新羅ホテル

【小泉総理演説】(一部抜粋)

 中近世になって、韓国の文化の高さを日本に知らしめたのは、15世紀から19世紀の長きにわたて続いた朝鮮通信使でした。
 江戸時代には、朝鮮通信使が江戸まで往復する六ヶ月の間、各地で日本の儒学者や文人、画家、医者などと交流し、当時の我が国の文化人や庶民達に大きな影響を与えたのです。
 (2002/3/22・韓国新羅ホテル)

【西日本各地に残る踊り】
 かつて、朝鮮通信使の一団が通った西日本の各地では、いまでも朝鮮通信使の行列を再現するものや、踊りなどがお祭りとして受け継がれています。三重県津市分部町鈴鹿市東玉垣町には「唐人踊り」があります。牛窓の「唐子踊り」とあわせて「三大唐人踊り」とでも名付けましょうか。また、最近の研究では、愛知県東三河地方の「笹踊り」も朝鮮通信使に由来するものという説もでてきました。
 朝鮮通信使ゆかりの各地方は「朝鮮通信使縁地連絡協議会」を結成しており、通信使に関する研究、交流なども行われています。


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